ナナシノ( )『希薄』に見たもの。得られた一つの答え。

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マスコミ。ボランティア。テレビのアイドル。違う世界からの言葉。
 

「頑張って。あなたは一人じゃない。一緒だよ。」といった言葉。よく使われる「絆」

これ、被災された方はどう思ってるんだろうか。

 

 

 

 

それに対して一つの解が示された気がする。

 

この舞台についていくつか説明しておくと、

東日本大震災を題材にした内容だ。

あかん人はここから下は見ないほうがいい。

 

 

 

 


お金がある。安定している。安全な所で休んで、そこからまた一日をはじめる。

お金と安定と安心から希望は生まれる。

その大半のリソースになるのは、家だ。

家があるから帰ってこれる。帰る場所がある。

家があるからどこかに行ける。仕事に行ける。

 

家が災害でなくなった瞬間に全部を失う、そこに残るのは貧困だ。

金銭的貧困、物理的貧困、精神的貧困の3つの貧困があると思うが、

被災された方は突然これら全てが貧困状態に放り出される。

 

書いてる私は金銭的貧困と精神的貧困の2つは経験したことがある。

歩いて普通に仕事をして普通に綺麗な服を着ている人が全くの別世界に見えたのを覚えている。

自分がいる世界はその世界ではないのだという感覚のなかで、

自分はこの世界における異物なのだ、ということも認識した。

”この状態を招いたのは全て自分のせいである”…そういう精神状態の中には希望なんてどこにもなく絶望がただ鎮座しているだけだ。

 

これよりひどい状態を想像することは出来る。

 

なぜ自分だけが生きているのかという後悔。

もっとこうすればあの人を助けられたのではないかという罪悪感。

それに対してどうすることもできないという隔絶。

痛みだけがその人の中で続いていく。

そんな痛みを想像することはできても体感することはできない。

そういう意味でどこまで行っても私は部外者でしかない。

他人事のその先にたどり着くことができない。

私がどんなに相手に寄り添いたくても、その痛みを分かち合いたいと思ってもその本当の痛みを知ることができない。

それが無力を感じさせて、悔しくてたまらない。

 


けれども、それは私の中での私の感情の話でしかない。

私は家を流されていない。私は家族も友達も知り合いも失っていない。

(生まれが原因で私が失くしたものや手に入ることのない一般的なものは数多あるけれども)

 

その時点で、自分を”持たざる者”だと思う人から見れば私は”持っている者”になってしまう。

”持っている者”が何を言ったって、同じ心境になんて立てないし、立ってほしくない。わかってほしくもない。

”持たざる者の感情”を持った瞬間に持っている人の言葉は全て聞こえなくなる。

嘲笑っているように聞こえるときすらある。そんな時は攻撃的にすらなるし、相手も同じ立場になればいいと思う。同じくらい不幸になればいいと思う。

怒りと悲しみと僻みとどうしようもない絶望…

私が街行く人に抱いた感情に似たものが、被災者とそうでない人の間に生まれることがあるのだと、とあるシーンに一つの回答を感じた。

 


私の過去の話。
 

かつて私自身が、些細なきっかけで被災者の方に自らの体験を交え突然怒りをぶつけられた事がある。

 

 

親族を亡くした方だ。

「俺に比べればお前の不幸やお前の失ったものは大したことはない。俺が失ったものは帰ってこない。だって死んだんだから。お前はなんとでもなるだろ。なんか言えよ。この話をするとみんな黙るから俺はこの話はしたくないんだ」

 

それに対して、私は何も言い返せないわけではなかった。

 

その時私はこう考えていた。

客観的な不幸と、主観的な不幸は一致しないのではないか。

心を引き裂かれるような悲しい体験が必ずしも目に見えることがないように。

心の痛みが目に見えないように。

不幸は個人の主観でその大きさが決まるのではないか。

 

だとしたら、他者が客観的な不幸から個人の不幸や痛みの大小を判断することはナンセンスだ。というような事を言い返そうか。


しかし、それを言っても暴力にしかならないと思った。

だからこそ、黙っていた。そのまま向こうの怒りは収まらず縁切りを言い渡された。

希薄を見た今だからこそ考えられるのは。

 

あのとき、あの人の言葉の矛先は私を含め、被災していない不特定多数の人々に向いていたのではないかと思う。

「親族を亡くしたという悲しみ」だけに終わらない何かがそこにはあったのかもしれない。

その方が背負ってきた被災者というレッテル全てに対する怒りをぶつけられたようにも思う。

 

彼らの怒りや悲しみはいつか消えるのだろうか。

時間が解決してくれるのだろうか。

そんなやり場の無い感情が彼らを持たざる者に変えてしまうのなら、きっと彼らにとって持っている者の言葉が届くのはいつになるだろう。

 

彼らのやり場のない感情がどこかに出ていったとき、私たちは少しでも彼らの世界に近づけるのだろうか。 


そもそもそんなときが来るのだろうか。


それぞれの不幸や痛みはこれからずっとそれぞれが抱えていくものだ。

痛みは自分ですぐに消すことができない。

誰かが痛みを消すこともできない。

それでもその痛みが止まらないなら、少しくらい吐き出す先になれたらいいと思う。

もしも彼らが話す相手を求めたなら、その時初めて何かができる気がする。


それは他人事ではないという認識があって初めて出来ることではないか。


ならば、他人事という認識が変わる日までは、お互いがお互いに向き合うことはできない。



今できることはこの認識を変えていくことのみ、なのかもしれない。



確かにあの日から日本は2つに分かれてしまったのかもしれない。
 

引かれた線のあっち側とこっち側。

あっち側のものだから関係ない。

…そんな認識は、変えられないだろうか。

全ては線のこっち側で起きているのだ。

そう考えられたとき、想像することはできる。

知ることができる。向き合うことができる。


関係のないあっち側になった途端、その裏で起きているどうしようもないことに目を向けることも難しくなる。


”他人事”が少ない世界は、今よりちょっとだけ優しい気がするのだ。


希薄が描いたもの、込められた願いはここにあるのかもしれない。